おかあさん

今週のお題「おかあさん」

 

 

つい先日、母子手帳を読む機会があった。

留学先であるこの異国の地で、病院に行かなければならなくなったので、保険を探していたら出て来た。なんだかんだ、あんまりじっくり読んだことなかったなぁ、と思い、わたしは頁をめくった。

 

 

 

わたしは、もう小さい頃から左耳があまり聴こえない。母子手帳には、当時3歳のわたしへの呼びかけに対する反応が、鈍いことが記されていた。頁をめくる。新たに書き込まれた病名に、次の年、そしてまた次の年と、その記入が消えることはない。

 

 

年齢を重ねるにつれ、書き方は徐々に雑になって、内容も特に細かく書かれることはなくなって。だけど、驚いたことに、母の記入はその母子手帳が母の手を離れる直前、つまりはわたしが日本を離れる直前まで、続いていた。わたし自身は見ることも、触れることも、ほとんど全くと言っていいほどなかった母子手帳。こんなに長くもの間、母はちゃんと活用していたなんて。

 

 

中学生の頃、わたしはTHE反抗期真っ只中で、学校に部活に習い事に塾にと、超アグレッシブな生活を送っていて、治ることのない耳のための病院に割く時間なんてこれっぽっちもないと、まあ治療をサボっていた。母は当然のことながら、毎日毎日耳にタコができるぐらい、口うるさく病院に行けと言ってくる。鬱陶しかった。左耳が聴こえないことはもはや当たり前、更に治療は現状維持のためのもので、聴力は戻ることはないと聞かされていた。中学生ながら、「今」という青春を生きるのに必死だったわたしは、自分の耳の「今後」のことなんて、考える余地がなかった。そしてわたしは、反抗期にありがちなセリフを母に吐いた。

 

「わたしの耳がこんななのは、お母さんのせいじゃん!!!」

 

口だけは達者な中2女子。あっちゃ〜。

 

母の反応は正直あんまり覚えていない。鬼母vs反抗期女子の口喧嘩の真っ最中なもんだから、この後更にヒートアップしたことは間違いなし。

 

こういう親からの鬱陶しい説教って、後になってから痛感するんだよなぁ。今、わたしの左耳の現状は、あまり良くない。あの時はわかってなかったんだ。現状維持の治療ってどういうことかを。悪くなる、ってことを、理解してるようで、してなかった。

 

 

「半分、青い」今期の朝ドラを見た。左耳が聴こえないヒロイン。雨の日も、ヒロインすずめちゃんの左耳は雨音が聴こえない。だから、すずめちゃんの左側はいつだって晴れ。だから、「半分、青い」

 

なんて素敵なんだろうって思った。お母さんにその話を伝えたら、面白いね〜!って (笑) その時ふと、わたしの中の口が達者な中2女子を思い出した。お母さん、あの時はごめんね。わたしは自分の左耳、好きだよ。おもしろいって思うよ。そしたらお母さん、「大丈夫〜 (笑) 」って。

 

 

あの時母が本当はどんな気持ちでいたのか、わたしには分からない。大丈夫、なんて言葉では抑えることの出来ない苛立ちとか、やるせなさとか、きっとあったと思う。だけど今わたしたちは、昔母が1人で立ってくれていたステージに、一緒に、同じ気持ちで、同じ方向を向いて立っていると思う。それはきっといずれはわたしが1人で立たなければならないステージだ。

 

その時には母には、ステージの下の後ろの方で、見守ってて貰えたら、もう十分だと思う。

 

アロハなフライデー

明日も朝から仕事だってのに、

 

もうすぐ今日も終わる時間だってのに、

 

お風呂に入らなきゃいけないのに、

 

ベッドから動けなくて、

 

大して興味もないのに携帯とにらめっこして。

 

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今日は少し前にお気に入りのお店で買ったお気に入りのスリッパを履いた。

 

仕事終わり、彼氏と喧嘩して家出してきた友達と合流してビーチでのんびりおにぎりを食べた。

 

サンセット見ながら喧嘩話を聞いて、それはおかしいよね〜って相槌を打った。

 

今日は金曜日だったから週に一度花火が上がる日で、最後の花火が打ち上がった時にその綺麗さに今の綺麗やったなー!って、二人できゃっきゃ言った。

 

その後も少しのんびりして、友達が家に帰るとき、わざわざ彼氏の家に近い方の道から帰って行ったのを見て、可愛いなぁって思った。

 

ま、喧嘩話を聞いてる時から思ってたけど、

 

大丈夫だよ。明日にはきっと、まるで何もなかったかのように仲良くしてるよ。

 

って、少し祈るような気持ちで心の中でそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

あら、なんだか素敵な金曜日だったかもしれない。

Happy Aloha Fridayだ!

 

 

さ、お風呂入ろっと。

 

 

わたしの名前

今週のお題「お花見」 

 

 

わたしはいかにも春らしい名前を持っている。そして何を隠そう、春生まれだ。やっぱり四季の中では春が1番好きだし、新生活が始まるあのなんともいえない匂いが好き。小学校の近くの匂いとか最高。

 

 

しかし南国に移り住んだわたしは、お花見をもうかれこれ4年ほどしていない。今年も、出来そうにない。一年の始まりが4月ではないこの国で、新生活の始まりのあの独特な雰囲気も、感じることは出来ない。

 

 

だけどたま〜に、ふわっと吹いた少し暖かくなった風の中に、春の匂いを感じることがある。はるがきた。わたしの胸はうずうずする。

 

 

もうすぐ誕生日。

両親と年の離れた兄姉がつけてくれた、お気に入りの、大好きなわたしの名前。

 

わたしが産まれた日、母の病室の窓から見えた八重桜は満開で、見事に咲き誇っていたという。

 

 

今年も、きっと遠くでお花見でもしてほっこりまったりしているであろう家族を想いながら、誰にも負けない満開の笑顔で、また一つ大人になるこの春を咲き誇ろうと思う。

 

 

 

 

おわり。

隣の人に優しさを

 

 

先日、俳優の大杉漣さんが亡くなった。

20代前半のわたしにとって、とても馴染みのある俳優さん、というわけではなかったけれど、テレビ越しからでも感じられる彼のお人柄は、優しくいられる強さみたいなものを持っている人だった。

 

二階堂ふみさんの追悼コメントに、

「いつでも隣の人に優しくて」

とあった。ああ、素敵な言葉だなぁ。やっぱりそうだったんだ。って、しみじみと、そう思わざるを得なかった。

 

 

 

最近のわたしは、わたしが唯一自分で誇りに思っている、「心の隙間」が、少しずつ、少しずつ、小さくなっている気がしている。

まあるかった心の形が、いろんな角度から削ぎ落とされて、少しずつ角が出来てきて、わたしの身体を内側からチクチクと刺す。

あれ?わたしってこんなだったっけ?

わたしの心って、こんなに歪だったっけ?

 

わたしの持論は、心と頭に隙間があればあるほど、人に優しくできる、というもの。何かに支配され、埋め尽くされた心と頭では、他のことを考える余地などまるでない。たとえある角度からはだらしなく見えようと、情けなく見えようと、思いやりを持てるならばそれでいい。人を傷つけない生き方が出来るならば、それでいい。

 

 

ほんの1ヶ月前のわたしは、出来ない自分が不甲斐なかった。「役立たずなわたし」。誰から言われたわけでもないのに、わたしはわたしにそう名付けた。早く名前を変えたくて、わたしは必死に次の名前を探してた。

 

そして今、出来ることは確実に増えたはずなのに、わたしはまだ、名前を変えられないでいる。

 

 

 

 

 

みんな、もっと褒められていいと思う。よく頑張ってるね、って。君のおかげで成り立ってるものが、確実にあるんだよって。

みんなきっとゴールが見えなくて、やってもやっても見えてこなくて、だけど走り続けるしかなくて。遠くの人はおろか、隣の人にすら優しくいられる余裕なんてなくて。

 

 

でもちょっと待ってよ。

みんなすごいよ。

当たり前に今出来てること、全然当たり前なんかじゃないよ。だけどまるで当たり前かのようにこなしてくれてすごいよ。ありがとうだよ。ほんとに、ありがとう。

 

 

 

仕事ができる人って、かっこいいなぁって思ってたけど、違う、それだけじゃない。仕事ができる自分を認めて、それを周りに還元できる人。なんてかっこいいの!

 

 

 

誰か褒めてー。

そしたらわたし、うんと頑張れるパワーを秘めてるんだから!

そう!だってわたしは、ユトリサトリ世代!ニーズに沿った方針でいこうよ!

 

 

 

おとといお父さんから、元気にやってるかいってLINEがきて、少し愚痴ったら、たった一言、

「いつでも笑ってな」

と返事がきた。

最高の解決策だよお父さん。

わたしの心の角が、少しへこんだ気がした。

 

そういえばわたしのお父さんもそうだな。

「いつでも隣の人に優しい」お父さん。

 

 

よーし、わたしだって。

「いつでも隣の人に優しい」、そんな強さを持ってやるんだ。

 

 

だから今日は、自分をうんと褒めてあげるために、あったかいココアでも飲んで、少しトゲのある歪なまあるい心を、ココアでたぷたぷに満たしてあげることにする。

 

 

 

世界より広いわたしの未来

今週のお題「受験」

 

 

わたしは高校生時代、とても不真面目な生徒だった。特に受験生である高校3年生は、私立の進学校であり、更に国公立大学を受験するコースにいたにも関わらず、残りの高校生活を謳歌すべく勉強など放棄して毎日のように遊び呆けていた。その遊び呆け方もタチが悪かった。学校が終わった後は、まっすぐ家に帰ることもなく、勉強もしないのに放課後の教室に残り、わたしと同じような不真面目な友達数人とやれお菓子パーティーだのやれ“ばかっこいい”の撮影だの(ペットボトルをどれだけかっこよくゴミ箱に投げ入れることが出来るか、などの成功するまでにただただ時間を浪費する遊び)を飽きることなく繰り返し過ごしていた。

 

 

勉強は嫌いではなかったけれど、わたしにはストレスを抱えてまで勉強をする理由が見当たらなかった。なぜならわたしには志望校というものがなかったからだ。

 

大学受験をする際に、親から与えられた唯一の条件は「家から通えること」で、関西圏に住んでいたわたしはその条件を満たす大学は腐るほどあった。選べなかった。将来やりたいことも、深く掘り下げて学びたいことも特になかったわたしにとって、大学選びは本当に困難なものだった。

 

高校の先生や親や周りの大人たちは、みんな口を揃えて「そんな早くから自分のやりたいことが明確に分かっている方が少ない。いずれ見つかるから、焦らないで、とりあえず大学には行っときなさい。」と言った。「とりあえず行っときなさい。」この言葉が呪いのようにわたしにつきまとった。

 

年の離れた兄姉は将来を見据えて専門系の大学や専門学校に行った。母も専門学校卒だった。父も自分の進むべく道のために、自分で学費を払いながら国立大学を出た。わたしの周りには、「とりあえず」大学に行った人はいなかった。国公立大学を目指すクラスメイトたちも、みんな今のこの高校生活最後の時間を、自分の将来のために投資してるんだ。そう思うと尚更「とりあえず」大学に行くなんて、真剣に将来を見据えている人たちに対して、そんな失礼なことを考えることは出来なかった。

 

 

かといって、高卒で働く勇気も度量もないわたしは、さあいよいよラストスパート、本腰をいれて最後まで駆け抜けましょう!の時期の10月頃に、やっとのことで志望校を決めた。当時読んでいた森見登美彦さんの「夜は短かし歩けよ乙女」で描かれていた京都の街並みに憧れ、全く勉強をしてこなかったわたしでも可能性はあるだろう得意な2科目受験の出来る京都の大学に決めたのだ。我ながらなんという端的な決め方、、

 

 

夏頃から、好きだった英語だけ本格的に勉強を始めていた。本当に運のいいことに、勉強をする上で相性が最高の先生に出会ったのだ。その先生は受験勉強ではない英語の勉強方法をみっちり叩き込んでくれた。

 

そのおかげで、公募推薦の約1ヶ月前から受験勉強を始め、2つの大学、3つの学部に合格した。わたしはなんとか、「とりあえず」大学に行くことに成功したのだ。

 

 

 

 

 

 

大学へ入学して半年。

ついに手持ち無沙汰になったわたしは、このままでいいのかな?こんなんでいいのかな?という自問自答を繰り返して、人生の迷路にどハマりした。そしてドロップアウト、退学。

 

 

 

 

 

で終わりの暗い話ではなくて。

退学する前に、本当にやりたかったことを見つけたのだ。海外の大学に行くこと。高校当時も頭の片隅にふわっとはあった。ふわふわっと。ふわふわっとし過ぎてたし、明確にする勇気もなかったから、遠回りをしてしまった。だけど、遠回りは悪いことなんかじゃないと思う。両親や兄姉には、たくさんお金を使わせてしまって、そこに関する申し訳なさはもちろんあるけれど、「時間」の面から見たら、わたしにとって必要不可欠な時間だったと今では思える。人間に厚みを持たせるのは、「経験」だと思う。どんな経験だって、いずれ役に立つ。物理的に、とは言わないけれど、それが正しかろうが正しくなかろうが、「わたしはこれをしてきた」或いは「してしまった」っていう経験は将来の自分の心の支えになる。

 

 

世界は広い。

だけど、自分自身の未来は、世界より遥かに広い。

 

 

父の覚悟

つい先日、わたしは人生最悪レベルの恐怖の30分間を過ごした。

 

「ハワイに向けて弾道ミサイルが発射された。ただちにシェルターを探せ。」

 

これが誤報だと分かるまでの時間、約30分。

 

日本時間は午前3時ごろ。家族はみんな寝ている時間で、(年末に子どもが産まれた姉は授乳中で起きていたのだけれど)きっと連絡がつかないことは分かっていたのだけれど、母に最後になるかもしれない電話をかけようか、若しくはその時間に助かるためにもっと他に何かできることがあるのか、頭の中はぐるぐるぐるぐると色んなことを考えざるを得なかった。

 

誤報だと分かった瞬間、わたしは自分の目から流れる涙を抑えることが出来なかった。

 

(家族と離れて暮らすって、こういうことか。)

 

日本を離れ、家族と離れて暮らすことを選んでから3年半。ホームシックになったこともあったけれど、それは最初の3日間だけで、それからは極度の寂しさもあまり感じることなく過ごしてきた。家族は兄夫婦、姉夫婦含め、みんな比較的仲のいい方だと思っているし、会いたいなぁと思う気持ちはもちろん常にある。だけど家族、特に母からの精神的な自立を目指して日本を離れたわたしにとって、この選択は間違いだったと思ったことは一度もなかった。

 

もともとアメリカは危ないという理由で留学に反対だった父を必死に説得し、了承を得たとき、父から貰った言葉はこれだけだった。

「あなたが日本を離れるというんだから、お父さんはもうあなたの死に目に会えなくても後悔はしないよ。あなたも、それぐらいの覚悟で行きなさい。」

 

2日前までは、その言葉をちゃんと胸に抱いて過ごしてきた「つもり」だった。2日前に突如として現れた30分間。その30分間で、この言葉の本当の意味を、家族と離れて暮らすことがどういうことかを、痛いほど感じた。

 

家族にこの出来事をグループLINEで報告したとき、普段はどうでもいいような日々の報告とか、よく分からない風景の写真とかを送ってくるくせに、それについての父からの返事は一言もなかった。既読はついていたから、読んではいたのだと思う。日本でもやっと朝になった頃、いつも通りの「おはよう」のメッセージが送られてきただけだった。

 

とても温厚でお茶目な性格で、父から叱られた記憶は一度もないけれど、家族にとって大事な決断は潔く下してくれる父。力ではない強さで、ぶれない軸で、家族を守ってきてくれた父。

「おはよう」のメッセージを見たとき、父の覚悟を、感じた。

 

 

 

 

 

そしてその日、父からはいつも以上によく分からない風景の写真がたくさん送られてきた。

 

父の愛を、感じた。

 

 

2018

今週のお題「2018年の抱負」

 

新年の始まり。

ずっとやってみたかったブログを始めた。昨年末、失恋ソングを夜通し聴いて悲しみに明け暮れていたわたしの心も、年が明けて今、やっと少しずつ晴れてきた。

 

「俺のこと、好きじゃないでしょ?」

 

好きな人に最後に言われた一言だった。

 

曖昧な関係が暫く続いていたわたしたち。彼なりにきっとたくさん考えてくれたのだと思う。だけど彼から外に吐き出される言葉たちは、自分を好いてくれている人に対する優しさみたいなものは、これっぽっちも感じられなかった。それがとてもショックだった。俺だったら好きな人にこういうことをしてあげたいと思う。俺だったら好きな人にそういうことは言わない。俺だったら、俺だったら、、、わたしは心の中で叫んだ。

 

「お前の頭の中はお花畑か!!!」

 

彼が彼の人生の中でなにを経験してきたのかなんてわたしには知る由もないけれど、果たして彼は自分以外の人も自分と同じように、若しくはそれ以上にたくさんのことを経験してきた1人の人間であるということを理解していないのだろうか。

 

彼と時間を過ごすことで、あぁ、きっと合わないんだろうな、と思うことは正直多々あった。彼は強い。強すぎるのだ。わたしよりも年下の彼は、きっとまだ自分の思い通りにいかなかった経験が少ない。どれだけ頑張っても、どれだけ自分が正しいと信じた行動をとっても、まるで空中にばら撒かれた紙ペラみたいにものごとが想定外の方向に進んでいってしまうことは生きていく上で必ずある。そんな時にでも、自分の気持ちに折り合いをつけて、あぁこんなこともあるよな、と思える心の余裕をいかに持っていられるか。受け入れろとまでは言わなくても、いかにそれらの経験を自分の心の糧に出来るか。

 

って偉そうに言ってるけど、わたしはわたしで、結局自分のものさしでしか彼を計ることが出来なかったのだと思う。お互いの譲れないものが、合わなかっただけ。きっとそうだ。

 

だけど間違いなく1つ言えることは、わたしは彼に恋をしていた。どこが?とか、なんで?とか、そんなこと聞かれても分からないぐらい、彼のことが好きだった。大好きだった。だからこそ、わたしはこの気持ちを押し付けないことを選んだ。わたしのこの“好き”の気持ちが、彼にとって嫌なものにならないように、大切に守ることを選んだ。考える時間が欲しいと言った彼が、ちゃんと冷静な判断を下せるように。彼の人生の、邪魔をしないように。

 

まあ、結果は冒頭の通り。

わたしはとても悔やんだし、涙がとまらなかった。感情なんてものは、所詮受取手がどう感じるか。受取手である彼がそう感じてしまったのなら、それはもう仕方のないことだ。と、最初は思った。

 

だけど。わたしがどういう気持ちでとった行動であるか、受取手に伝わらなければそれは結局、「なんの意味もない」。感情?気持ち?行動?全部全部、伝わらなければ意味がないのだ。やっぱり大事なのは、言葉だ。しっかり相手の目を見て、自分の気持ちを乗せて。だけど言葉は自分の考えだけが伝わればいいってものじゃない。相手の気持ちを汲んで。出来るだけ、優しく、温かみのある言葉を選んで。

 

伝えた。これでやっと、きっと彼にも伝わったはずだ。もう思い残すことはない。だけどこれからも彼のことはきっと好きだ。まだまだ思い出にするには時間が必要だし、聴くたびに胸が詰まりそうな思い出の曲もたくさんある。だけど、わたしは伝えたのだ。どうしても届いて欲しかった気持ちを、届いて欲しかった人に。

 

2018年の抱負は、優しく、温かみのある言葉を、選び、そして伝える。 きっと人生は選択の連続だから。

 

大丈夫、大丈夫。

きっと2018年は、明るい。